11月30日よりみちクラブ「平城京の南辺と稗田阿礼ゆかりの地を巡る」に参加した。雨模様で心配であったが、強行した。近鉄橿原線九条駅で集合した。奈良時代の西市跡や郡山城外堀、羅城門跡、稗田環濠集落、賣太神社、町屋物語館を経由して郡山駅で解散した。佐保川を市に物品を運ぶために改修したり、郡山城の外堀に利用した。羅城門跡は全く残っているものはなかったが、そこからはるかかなたに大極殿院と大極門が重なって見れた。平城京の全体図が想像でき、感慨深い
稗田環濠集落は外敵と洪水から守り利水を目的にした中世の遺構だ。また立派な建造物の廓を見学することが出来た。田舎町だが、知らない事ばかりで、勉強になった。
[平城京西市跡]奈良時代の都・平城京には2つの官営市場があった。右京の西市と、左京の東市だ。西市は、現在の近鉄九条駅の東側にあったとされ、広さは実に7万平方メートルもあったと考えられてる。秋篠川が佐保川との合流地点に差し掛かろうと東向きへ流れを変えるあたりに西市の船着場跡があり、川の土手から50mほど下ったところに西市跡を示す碑が建てられている。史料などから、西市は正午から日没まで開かれ、米、麦、魚、塩、野菜といった食料品のほか、衣料品や日用品なども売られていたようだ。船着場は大和川経由で難波と結ばれていて、当時あらゆる物資が川をさかのぼって平城京まで運ばれてきたのだろう。
[羅城門]羅城門は、かつて朱雀大路(平安京のメインストリート)の南端に建てられていた大門(北端には朱雀門があった。)。平安京の表玄関にあたる門で、9間5戸の重層門だったという。東西には門を守護するための東寺と西寺(廃寺)が置かれ、この門が京の内外との境となっていた。写真は羅城門があったと思われる橋の上から撮ったもので直線状に手前に最近再建された大極門、奥に大極殿院が見える。
[稗田環濠集落]かつては奈良盆地に多く存在した環濠集落。賣太神社を中心に壕(ほり)がめぐらされた稗田の環濠集落は、ほぼ完全な形で残る代表例だ。東西、南北ともに約260mの広さを有し、北東側は「七曲り」と呼ばれる特異な形成をしている。東西、南北に大きな道があり、そこから細い道がのびて、T字形に交差したり、袋小路になっていたりと、遠くが見通せないような構造となっている。史料がほとんど残っていないため、どのように形成されたのかは不明だが、室町時代には現在の形だったとか。入り組んだ路地の左右に立ち並ぶ民家の土壁に沿って水をたたえる様子は、なんとも風情がある。
