よりみちクラブ「畝傍ミステリーツアー」
1月27日よりみちクラブ「畝傍ミステリーツアー」に参加した。10時に近鉄岡寺駅に集合、20数名が集まった。3人のガイドさんの案内で最終橿原神宮まで、どちらかと言うとマイナーなコースだが、岩舟や千塚古墳は感動した。行程は下記の通りだ。
岡寺駅→牟佐坐神社→沼山古墳→益田磐船→小谷古墳→宣化天皇陵→新沢千塚古墳群→橿原市博物館→益田池堤→橿原神宮前駅(解散)→(希望者のみ)橿原考古学博物館→橿原神宮前駅
約12km歩いて16時半終了した。小山を登ったりして、ハードな工程であった。
[岩船]この石造物の規模は、東西約11m、南北約8m、高さ約5mある。真上から見ると長方形をしているが、山側の下半部は埋っており、立面形については四角いのか丸みをもつのかは不明。頂部平坦面の中央には幅約1.6mの浅い溝があり、その中に一辺約1.6m、深さ約1.3mの方形の穴が2つ並んで彫られている。何の目的で造ろうとしたのか不明だが、7世紀のものであり、益田池の台石の説や90度回転させて、横穴式石棺という説、占星座や物見台など考えられている。
[新沢千塚古墳]
新沢千塚は総数約600基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)である。古墳群は、市南側で高市郡高取町との境界となっている貝吹山(かいぶきやま)から四方に派生する尾根のうち、北西方向に伸びる低い丘陵上に立地している。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは4世紀の終わり頃、今から1600年ほど前。6世紀の終わり頃までの約200年にわたって古墳が造られ続けたが、そのうち最も多く古墳が造られた時期は、5世紀後半から6世紀前半にかけての100年間だ。遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされた副葬品が出土した126号墳の調査はその代表的なものだ。
[久米寺]
一般に「久米(くめ)の仙人」の伝説にちなんだ寺として知られているが、もともとここは久米部(くめべ)の武人の住んだ地といわれ、推古(すいこ)天皇2年の時に聖徳太子の弟だった来目皇子(くめのおうじ)の創建と伝えらる古寺だ。来目皇子が幼少の頃眼病を患い両目を失明したが、聖徳太子のお告げにより薬師如来に祈願したところ平癒したと言われている。創建のきっかけは、推古天皇の眼病全快のお礼だったと言われ、本尊の薬師如来は、眼病に効くと言われた。
岡寺駅→牟佐坐神社→沼山古墳→益田磐船→小谷古墳→宣化天皇陵→新沢千塚古墳群→橿原市博物館→益田池堤→橿原神宮前駅(解散)→(希望者のみ)橿原考古学博物館→橿原神宮前駅
約12km歩いて16時半終了した。小山を登ったりして、ハードな工程であった。


新沢千塚は総数約600基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)である。古墳群は、市南側で高市郡高取町との境界となっている貝吹山(かいぶきやま)から四方に派生する尾根のうち、北西方向に伸びる低い丘陵上に立地している。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは4世紀の終わり頃、今から1600年ほど前。6世紀の終わり頃までの約200年にわたって古墳が造られ続けたが、そのうち最も多く古墳が造られた時期は、5世紀後半から6世紀前半にかけての100年間だ。遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされた副葬品が出土した126号墳の調査はその代表的なものだ。

一般に「久米(くめ)の仙人」の伝説にちなんだ寺として知られているが、もともとここは久米部(くめべ)の武人の住んだ地といわれ、推古(すいこ)天皇2年の時に聖徳太子の弟だった来目皇子(くめのおうじ)の創建と伝えらる古寺だ。来目皇子が幼少の頃眼病を患い両目を失明したが、聖徳太子のお告げにより薬師如来に祈願したところ平癒したと言われている。創建のきっかけは、推古天皇の眼病全快のお礼だったと言われ、本尊の薬師如来は、眼病に効くと言われた。
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