11月11日第25回よりみちクラブ(京の大仏ゆかりの地を巡る))に参加した。京阪七条に10時集合だ。出かけるとき大阪は雨が降っていたが、京都に着くと晴れていた。ガイドはならなぎ会員が一人でやってくれた。京都生まれの私だが、京都に大仏殿があったとか、正面という電停があったが、大仏殿の正面であるとか、東福寺の東司など知らないことが多く、参加して良かった
コースは以下の通りだ。
京阪七条駅(10:00)~正面橋(10:10)~耳塚(10:20)~方広寺 (10:30) ~大仏殿跡(10:45) ~豊国神社(11:00)~太閤塀(11:15) ~豊國廟参道(11:45)~智積院(12:00) ~昼食( (12:15~13:00)~新今熊野神社(13:10)~東福寺(13:45) ~JR・京阪東福寺駅(15時頃) (歩行距離 約6km)
[方広寺]豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさであったという。また、刀狩で没収した武器を再利用して釘にしたものも使われた。この大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、木食応其に命じて銅造での大仏復興を図るが、慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は全て焼失した。慶長13年(1608年)より片桐且元を奉行として再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏殿と大仏が完成した。慶長19年(1614年)には梵鐘が完成したが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康および徳川家を冒瀆するものとみなされ、最終的には大坂の陣による豊臣家の滅亡を招いてしまったとされる。この大仏も寛政10年(1798年)に落雷が大仏殿に落ち、火災で焼失。以後は同様の規模のものは再建されなかった。
[耳塚]豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。
[東福寺]摂政九條道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺だ。嘉禎2年 (1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成した。仏殿本尊の釈迦仏像は15m,左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで,新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至った。

方広寺鐘楼

方広寺梵鐘

明暗寺

後白河天皇陵

東福寺大本山

東福寺三門

東福寺東司

東福寺橋

東福寺紅葉
