5月14日第15回よりみちクラブが開催された。10時すぎ飛鳥駅で集合した。総勢23名が集まった。コースは下記の通りだ。誰もが一度は行ったことがあるコースだが、残念ながらよりみちクラブの宿命である「雨」であった。しかしベテランのガイドさんの案内であるので多くの参加があった。飛鳥駅 → 欽明天皇陵・吉備姫王墓(猿石)→ 飛鳥歴史公園・高松塚古墳 → 天武・持統天皇陵 → 亀石 → 橘寺 → 石舞台(12時頃)→ 食事 → 飛鳥板葺宮跡 → 酒船石 → 飛鳥寺 → 飛鳥資料館 → 甘樫丘 → 橿原神宮前駅 解散(16時45分頃) 各名所で拝観料を払って入場した。雨でスケジュールが押していて橘寺で食事をさせてもらった。最後は雨のため早い目に終わり甘樫丘からバスで橿原神宮駅まで行って15時半終了した。皆様お疲れ様でした。
[高松塚古墳]直径18m、高さ5mの小さな円墳。昭和47(1972)年3月、石室内に彩色壁画(国宝)が発見され、戦後最大の発見として大きな注目を集めた。石槨内部には古代中国道教の影響を受け、東壁には青龍と日像、西壁には白虎と月像、北壁には玄武、東西の両脇には人物像、天井には星宿図が描かれている。被葬者は7~8世紀の皇子とみられる長身の男性とされるが、詳細は分かっていない。古墳内部は保存上密閉されているため、見学はできない。隣接する高松塚壁画館で、精巧な模写や石槨の模型が展示されている。
[橘寺]創建年代不詳。文献に初めて登場するのは天武9年(680)。聖徳太子誕生の地といわれ、太子建立の7カ寺の一つ。8世紀には66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸期に再建された本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっている。室町時代の聖徳太子坐像(重要文化財)をはじめ、善悪2つの顔が刻まれた二面石などがある。境内には3つの副柱の穴をもつ塔心礎が残る。
[飛鳥寺]推古4年(596)、仏教を保護した蘇我馬子の発願により日本初の本格的寺院として完成した。三金堂が塔を囲む大寺で、法興寺 元興寺とも呼ばれる。平城遷都に伴い奈良の地に新たに元興寺が建立されて以後は、本元興寺と呼ばれた。鎌倉時代に伽藍の大半を焼失した。現在の本堂は江戸時代に再建されたもの。本尊の銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時、飛鳥時代の作で日本最古の仏像。飛鳥大仏の名で親しまれる。寺の西側には蘇我入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔が残っている。境内に山部赤人の歌碑がある。
[酒舟石]小高い丘の上にある花崗岩の石造物。主軸はほぼ東西で、現存の長さ約5.5メートル、幅(南北)約2.3メートル、厚さ約1メートルであるが、北と南の一部が欠けている。上面に皿状のいくつかのくぼみとそれを結ぶ溝が刻まれている。酒を造る道具、あるいは薬などを造るための道具とも言われ諸説あるが定かではない。近くに水を引いたと見られる土管や石の樋も見つかっていることから庭園の施設とも言われている。 後世江戸時代に高取城を築城するため石垣用の石材として利用しようとしたと思われる石割用の石鑿の跡が見られ、上面の造形が欠損している。 1927年(昭和2年)4月8日、国の史跡に指定された。
[飛鳥板葺宮跡]板蓋宮は、7世紀半ばの皇極天皇の宮殿で、中大兄皇子(天智天皇)らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(大化の改新)の舞台。皇極天皇、斉明天皇(皇極天皇重祚)の皇居跡で、伝飛鳥板蓋宮跡とされていたが、継続的な調査で、飛鳥板蓋宮だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が継続的に置かれていたことが判明し、平成28年に、名称が「飛鳥宮跡」に改められた。現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のもの。

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