ならなぎ特別例会 「鹿垣」
10月20日特別例会が行われた。奈良教育大渡辺教授による「鹿垣」について学んだ。10時当大学に40名が集合、教授の説明を受けながら周辺を回った。地図を参考にして①から順にコースをとり、1周して大学に戻った。2時間の予定だったが、教授の熱の籠った説明を受け、3時間掛った。昼食をはさんで13時40分から講義を受け15時で終了した。
コース地図
[地図①奈良格子]
奈良公園の鹿苑でやっている「鹿の角切り」も、江戸時代には町中でやっていた。そこで、シカが暴れても、家も守れるしシカも傷つけない方法として、奈良格子が編みだされたようだ。
[地図②バッタリ戸]
今は戸の支柱は現存していない。この写真は1999年に撮影されたもので、当時は残っていた。住宅街の道に鹿が入ってこないように戸が設置されていた。新薬師寺に保存されてあるらしく、拝観料600円を払って参拝頂ければ、支柱も見る事が出来る。
[地図③鹿捕獲柵]
畑のある区域に設置して侵入してきた鹿を生け捕りにする。殺傷してはならない。そのしかは永遠に鹿苑にて管理される。
[地図④鹿垣遺跡]
鹿が農地に侵入しないように土塀が設けられた。今は崩れているが写真の左側が塀跡で多分2mくらいの高さがあったと思われる。その右に少し窪んでいるが、そこを掘って塀を築き上げたていった。
[地図⑤現代バッタリ戸]
鹿やイノシシが侵入されないように柵を設けてある。農道を誰もが通り過ぎれるように開け閉めが出来るようになっている。山野辺の道にも良く見かける。
[地図⑥春日神社 勝訴記念碑]
1979年第1次鹿害訴訟を提訴。原告は農協非加盟農家、被告は春日大社と愛護会。1981年第2次鹿害訴訟で国と市を提訴。1985年和解成立。
鹿侵入防止フェンス費用1000万円/年を国が負担している。
[講義内容]
奈良の鹿が神聖なものになったのは、春日大社に祭られている武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、鹿島神宮(茨城県)から白鹿に乗ってやってきたとの伝承による。住民は神鹿(しんろく)として大事にする一方で、農産物の食害に悩まされ続けた。鎌倉時代には、奈良で鹿を殺すと処刑されるケースもあるほど神聖なものとされた。しかし厳罰の風潮は徐々に薄れ、食害に注目が集まる。江戸時代には鹿が街から農家のある周辺部へ出ないよう鹿垣と呼ばれる垣根や土塀が設けられた。殺傷せず多大な費用を支出してでも、人と鹿が共存できる社会を実現できるように努力を重ねた。



奈良公園の鹿苑でやっている「鹿の角切り」も、江戸時代には町中でやっていた。そこで、シカが暴れても、家も守れるしシカも傷つけない方法として、奈良格子が編みだされたようだ。

今は戸の支柱は現存していない。この写真は1999年に撮影されたもので、当時は残っていた。住宅街の道に鹿が入ってこないように戸が設置されていた。新薬師寺に保存されてあるらしく、拝観料600円を払って参拝頂ければ、支柱も見る事が出来る。

畑のある区域に設置して侵入してきた鹿を生け捕りにする。殺傷してはならない。そのしかは永遠に鹿苑にて管理される。

鹿が農地に侵入しないように土塀が設けられた。今は崩れているが写真の左側が塀跡で多分2mくらいの高さがあったと思われる。その右に少し窪んでいるが、そこを掘って塀を築き上げたていった。

鹿やイノシシが侵入されないように柵を設けてある。農道を誰もが通り過ぎれるように開け閉めが出来るようになっている。山野辺の道にも良く見かける。

1979年第1次鹿害訴訟を提訴。原告は農協非加盟農家、被告は春日大社と愛護会。1981年第2次鹿害訴訟で国と市を提訴。1985年和解成立。
鹿侵入防止フェンス費用1000万円/年を国が負担している。

奈良の鹿が神聖なものになったのは、春日大社に祭られている武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、鹿島神宮(茨城県)から白鹿に乗ってやってきたとの伝承による。住民は神鹿(しんろく)として大事にする一方で、農産物の食害に悩まされ続けた。鎌倉時代には、奈良で鹿を殺すと処刑されるケースもあるほど神聖なものとされた。しかし厳罰の風潮は徐々に薄れ、食害に注目が集まる。江戸時代には鹿が街から農家のある周辺部へ出ないよう鹿垣と呼ばれる垣根や土塀が設けられた。殺傷せず多大な費用を支出してでも、人と鹿が共存できる社会を実現できるように努力を重ねた。

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